大須あっぱれ伝とは?

大須商店街では1年を通してさまざまなイベントが行われ、何十万人もの人々が商店街を訪れます。
大須で行われるお祭りは商店街の人々の手づくりです。そこには人々を魅了するため、日々努力を惜しまない大須商店街の方々がいます。

このページでは、そんな魅力たっぷりの大須で働く人々を紹介していきます。この記事は、大須商店街にあるFP石原の石原基次さん手作り、『大須経済新聞』で取り上げられた記事をもとに作っています。

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大須有名人列伝 その2

大須新天地通商店街
振興組合 理事長 前田勝夫さん


毎月28日、大須は縁日で賑わう。「みょうおんさん」「大須観音の骨董市」「赤門28ライブ」そして「万松寺の身代り餅」。織田信長公ゆかりの万松寺(ばんしょうじ)の「身代り餅」は、40年前から1度も休むことなく継続し、つきたての「きな粉餅」が参拝客に振る舞われている。大須新天地通商店街振興組合の前田勝夫理事長(万松寺ビル1階のブティック「フォンテーヌ」社長)に聞いた。


万松寺「身代り餅」

「おかげさまで、大病が治りました」と目に涙をうかべ、ギュッと手を握られるおばあさん。毎月28日、500名を超える方が、「身代り餅」を楽しみに万松寺に参拝されます。

初めは「手が笑った?」
昭和40年代の大須は、街全体が衰退していました。アーケードの中程に織田信長公ゆかりの「万松寺」がある「新天地通商店街」も同様で、4つあった映画館の客数も減少し、閑古鳥が鳴いていました。
「なんとか、人が集まるきっかけはないものか?」当時の商店街の役員が、万松寺の住職に相談し、この「身代り餅」が始まったのです。
当時は、青年部の若手が中心となって、慣れない手つきで餅をついたのですが、つき終わると「手が笑っていました」。山下りのあと「膝が笑う」ように手が笑って、字が書けませんでした。
あれから40年、毎月28日には、1度も休むことなく、厄除け、交通安全祈願のうえ、65㎏、15臼の「身代り餅」が振る舞われ、商店街も大いに賑わっています。

「身代り餅」の由来
1570年、織田信長公が、越前を攻めた帰り道、琵琶湖の北方で鉄砲に撃たれました。しかし、2発の命中弾は、信長公の懐の干し餅に当たり、かすり傷だけで難を免れました。
この餅は、当時の万松寺和尚からもらい受けた餅でした。日ごろ織田家が深く信心していた「万松寺の不動明王」の加護によるものといわれています。
後にこの話を聞いた加藤清正が、「身代り不動明王」と命名。当時、門前の茶屋で売っていた餅も「身代り餅」と称され、災難、厄除けとして多くの人に愛されたそうです。

新天地通商店街について
「身代り餅」により地域の皆さんとのコミュニケーションも深まりつつあった1977年(昭和52年)3月、新天地通に面した映画館跡地に「アメ横ビル」がオープン。同じ頃に「地下鉄鶴舞線」が開通し、「大須大道町人祭」も始まりました。『この3つの出来事が、大須活性化の起爆剤』となったのです。
「アメ横ビル」という核ができた新天地通には、お客様が飛躍的に増加し、その後、個性的な店舗や、大型のテナントビル「メガタウン」、「万松寺ビル」、「301ビル」も誕生しました。
時の流れ、消費環境の変化と共に、商店街で販売する商品やサービスも常に変遷していますが、お客様に支持され、新たに出店した専門店が、街に活力を吹きこんでいます。
大須での娯楽の代表であった映画館は、現在ありませんが、パチンコ、ゲーム、オタクをはじめとする娯楽産業の集積も、新天地通商店街の特長です。

年末セール
恒例の大須名物イルミネーションが、新天地通ドーム型アーケードに彩りを添え、年末セールが始まりました。
厳しい経済環境ではありますが、アメ横ビルなどの核店舗と専門店、そして万松寺が、共存共栄し、これからもお客様に愛される新天地通商店街を目指していきます。

ふれあい広場アーケード
10月に開催された金の御柱争奪!「金の玉ころがし・障害物レース」では惜しくも「チーム・東仁王門」に先を越された「チーム・新天地」ではありましたが、悔しさを胸に4年後?のリベンジを宣言!します。
しかし、「オール大須」が大須の商人の心意気です。時には対抗意識を前面に真剣勝負するものの「年末セール」や「祭り」では一致団結し、お客様のため、大須のためにいつも全力投球をしています。
いよいよ来年3月に念願の「ふれあい広場アーケード」が完成します。新天地通商店街の組合員55名は、これからも万松寺「身代り餅」の伝統を継承していくと共に、「オール大須」の街づくりを担っていきます。

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